エッセイ

努力とは、天才だった自分に戻ること

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「努力ってさ、頑張ることじゃないよね」

そう言うと、「いやいや、努力こそが人間の価値でしょ」と返されるかもしれない。

だけど私は思うのだ。

本当に努力している人って、必死な顔をしていない。

むしろ、楽しんでいるようにさえ見える。

小さな子どもが、夢中になってブロック遊びをしているとき。

泥だらけになって虫を追いかけているとき。

あれは、誰かに「頑張ってるね」と言われたくてやっているわけではない。

ただ、楽しくて仕方がないのだ。

努力って、本来ああいうものなんじゃないか。

「努力してます」は、自分で言うことじゃない

「努力してるね」と言われて、「そうなんです、頑張ってます」と返すとき。

それはどこか、義務感のにおいがする。

本当の努力って、あとから振り返ったときに

「ああ、あれって努力だったんだな」と気づくもので、

真っ最中のときには、自分ではまったく努力だと思っていない。

むしろ

「なんでこんなにハマってるんだろう」

「気づいたら何時間もやってた」

そんな感覚のほうが近い。

誰かに褒められるためにやることは、報酬目的の外発的動機。

でも、それだと続かない。

長く続いて、大きな成果を生むのは、やっぱり内発的動機。

つまり「楽しいからやってる」っていう、子どものころに誰もが持っていた、あの純粋な感覚なのだ。

頑張るな、遊べ。

「俺に頑張って下さいはいらない」

「好きなことに対して挑戦してるんだから頑張ってない、楽しんでる、好きな事じゃなかったらしなきゃいい」

これは、プロ野球界の異端児・新庄剛志さんが、復帰に向けてハードなトレーニングをしていた時の言葉だ。

見ている方からすれば、とんでもない努力に見える。

でも本人は楽しんでいる。

これこそが、天才の帰還である。

大人になると、Want(やりたい)よりMust(やらなきゃ)が優先されがちになる。

でも、新庄さんはそこを逆転させた。

「好きなことに夢中になってたら、勝手に体が動いてた」

これって、子どもが遊びの中で学んでいるときとまったく同じ構図だ。

努力が続かないのは「楽しくない」から

努力が続かないと嘆く人がいるけれど、その多くは「頑張らなきゃ」という重さに潰されている。

運動なら、「痩せなきゃ」「健康のために」と義務ばかりが先に立つ。

勉強なら、「いい大学に行くため」「評価されるため」と、外からの目ばかり気にしている。

でも、継続している人は違う。

「楽しいからやってる」

「気持ちがいいからやってる」

「自分で工夫して記録を伸ばすのが面白い」

そんな、遊びの延長線上に努力があるのだ。

努力が続かない人と続く人の違いは、

「努力をしているかどうか」ではなく、「努力を楽しめているかどうか」だけ。

努力は「天才だった頃の自分」に戻るための旅

誰でも子どもの頃は、遊びの天才だった。

努力なんて言葉も知らずに、夢中になって試行錯誤していた。

そのとき、私たちは「苦しいけど我慢」なんて考えていなかった。

大人になって、その才能を一度失ったように感じる人もいるかもしれない。

でも、なくなったわけじゃない。

ただ、見えなくなっているだけ。

努力とは、過去の自分に戻ること。

夢中という状態を、もう一度、自分の中に見つけにいくことだ。

今日からできる天才へのリハビリ

  • 目標を立てる前に、「どうやったら楽しめるか」を考えてみる
  • 成果より「今やっている時間の心地よさ」を意識してみる
  • ご褒美や称賛より、「自分のワクワク」を判断基準にする
  • 「やらなきゃ」ではなく「やりたい」に近づける工夫を考える
  • 少しでも楽しめた日は、それだけで成功とみなす

努力の価値は、汗の量ではなく、どれだけ心を動かせたかにある。

まとめ:努力とは、自分で選んだ遊びである

私はもう、「努力してます」とは言わないことにしている。

やっていることが楽しいなら、それは努力ではなく、ただの好きなことだ。

やっていることが辛いなら、それは努力ではなく、やり方の再設計が必要な段階だ。

努力とは本来、「楽しむ力」を呼び戻すプロセスなのだ。

人は誰しも、かつては天才だった。

その感覚を思い出せるかどうか、それが、本当の努力なんだと思う。

それでは、今日も1日、最高に楽しく生きましょう!

PROFILE
のりたま
のりたま
僧侶兼主夫として働く、三人娘の父親ブロガー
健康的で、SDGsな子育てや、人生の質を向上させる有益な情報を発信します。
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