友達の定義

「あなたにとって、友達ってどんな存在ですか?」
先日、そんな問いを受けました。
なんてことのない質問のようでいて、なかなか答えが出てこなかった。
いや、正確に言えば、私は昔からこの手の問いに弱いのだと思います。
これまでの私は、どこか誇らしげに「友達はいません」と言ってきました。
でも今にして思えば、それは「友達とは何か?」という曖昧で面倒な問いに向き合うのが億劫で、逃げていただけだったのかもしれません。
目次
「定義」が曖昧なまま、距離を取ってきた
世の中でよく言われる友達の定義。
昔からの付き合い。悩みを打ち明け合える関係。仕事終わりに愚痴を言い合う仲間。
どれも悪いものではないと分かっています。
でも、私の中にはずっと「それって、本当に必要なの?」という違和感がありました。
私は、過去の話より未来の話がしたい。
誰かの悪口より、その人の良いところを見つけて、自分に取り入れたい。
悩みを語るより、まず行動してみたい。
そんな性格なので、「友達なんて、仲のいい人ってことにしておけばいいじゃないか」と言われても、簡単にはうなずけなかったのです。
曖昧な言葉が苦手な私にとっての「友達」
私は、言葉を曖昧に使うことができません。
だからこそ、「友達」という言葉にも、ずっと明確な定義を求めていました。
辞書を引いてみても、その定義はさまざまです。
「勤務、学校、志を共にして交わる人」とか、「互いに心を許し合い、対等に関わる関係」とか。
どれも正しいようでいて、どれもしっくりこない。
なぜなら、「心を許す」とはどこまでを指すのか。
それに、「互いに」という前提が成り立つかどうかも分からない。
こちらが心を開いていても、相手がどう思っているかは結局わからないのです。
数より質?
よく「友達は数より質」と言われます。
1000人と浅くつながるより、10人と深くつながる方がいい。
たしかに一理ある考えです。
でも、その10人が本当に自分を「友達」だと思ってくれているかなんて、分かるものではない。
むしろ、1000人の中に、思いがけず心を通わせられる相手がいるかもしれない。
つまり、「量」も「質」も、指標としては不確かすぎるのです。
だから私はこう考える
いろんな定義を探してきた私が、ようやくたどり着いたのは、たったひとつの基準でした。
「この人のために何かしたい」と思えるかどうか。
それだけでいい。
相手が私のことをどう思っていようが関係ない。
見返りもいらない。
自分がその人の人生に、ほんの少しでも良い影響を与えられるなら。
それはもう、立派な「友達」なのだと思います。
心を開くということ
以前の私は、「相手が自分を友達だと思っているか分からない」と言っていました。
でも今は、その考え方そのものが、自分が人に心を開いていなかった証だったと気づいています。
自分は本当に、相手を見ていたのか?
相手の良いところを見つけようとしていたのか?
欠点を受け入れ、その上で関わろうとしていたのか?
正直、私は、全然できていませんでした。
心を開けば、相手も心を開いてくれる
それに気づいてから、私は少しずつ変わり始めました。
自分の弱さも、未熟さも、隠さずに話すようにしてみた。
すると不思議なことに、相手も少しずつ心を開いてくれるようになった気がします。
心理学には「自己開示の返報性」という言葉があります。
人は、自分に心を開いてくれた相手に、自然と心を開きたくなる。
つまり、「心を開いてほしい」と願うなら、まずは自分が心を開かなければならないのです。
私にとっての「友達」
今、私はようやくこう答えられるようになりました。
「相手がどう思っているかは分からない。でも、私は友達だと思っている人が、たくさんいます」
たとえ一緒に遊ばなくても。
愚痴を言い合わなくても。
写真を撮ったり、記念日を祝ったりしなくても。
雑談の中で、少しでもその人の人生が明るくなるように。
ちょっとした健康の話、気の利いた豆知識、励ましの言葉。
そんな何気ない会話に、小さな思いやりを込めることができたなら。
そしてそのやりとりが誰かを通じてまた別の誰かに伝わっていくのなら。
それはきっと、私なりの友情のかたちなのです。
おわりに
友達とは、決まった形のあるものではなく、「この人のために何かしたい」と思える、ささやかな感情から始まるもの。
その関係性は、見返りを求めず、静かに育まれていく。
誰かにとっての「友達」である前に、自分の中で「大切にしたい」と思える人がいるかどうか。
今の私は、そう考えるようになりました。
それでは、今日も1日、最高に楽しく生きましょう!