エッセイ

強く生きる覚悟

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「夜9時以降にスマホやテレビを見たら、目が爆発するんですよ」

そう話すと、たいてい笑われる。

「大袈裟な」と。

だけど、私は本気でそう思っている。

ある意味、呪いのような言葉だ。

それくらい強い覚悟を自分に課さなければ、私は簡単に崩れてしまうからだ。

極端な言葉で守る、自分との約束

睡眠の質を上げたい。

翌日の自分のために、今の快楽を断ちたい。

その決意を貫くために、私は「極端な言葉」を使っている。

階段を使わないと足が折れる。

運動しないと死ぬ。

ファーストフードを食べると胃が溶ける。

周りの人に、そう大袈裟に伝えることで、人の記憶に残るようにしている。

「ストイックですね」と時折言われることがある。

でも実際は、全然違う。

そうでもしなければ、できないだけなのだ。

「今日くらい、いいか」

その誘惑は、毎晩のようにやってくる。

そんなとき、私は自分が宣言した言葉を思い出す。

私の覚悟を聞いてくれた人たちの顔を思い出す。

そして、その自分との約束を思い出すのだ。

弱い自分が見せる、もう一つの顔

でも、この自分と向き合うのが非常にきつい時がある。

それは自分が勝手に決めた人生なのに、それをやっていない人を見て嫌気がさす自分だ。

ファーストフードを「胃が溶ける」と言っている人生なのに、ファーストフードを頬張る人を見かける。

横断歩道ではなく斜め横断する人、運転中にスマホ操作する人、身障者マークの駐車場に我が物顔で止める健常者。

それらを見るたびに注意したくなる、正したくなる。

でも、それは結局、私の中にいる「弱い自分」が投影されているのだ。

私は、苦しいとわかっていながら、あえてその道を選んだ。

それなのに、自分の我慢が報われないことへの苛立ちを、他人にぶつけようとしている。

「自分ばかり我慢して、ずるい」

そんな思いが、ふと心をかすめる。

でもそれは、私が自分で選んだ人生なのだ。

我慢は自己否定であり、他者否定に変わりやすい

心理学的に言えば、人は自分の夢や本音を押し殺して社会の常識に従うとき、「働いた方がいい気がする」「ちゃんとした方がいい気がする」と、本心と思い込みを混同しがちだ。

その葛藤の中で自己否定が始まり、他者に対しても否定的になる。

「なんで自分ばかりが我慢しなきゃいけないんだ」

「自由に生きてるあの人はずるい」

その感情が膨れ上がってくる。

例えば、奢ったのに感謝されなかった時にイラッとするのは、そこに我慢や犠牲の感覚があるからだ。

我慢の裏には、「誰かに見てもらいたい」という期待がある。

でも、残念ながら誰も見ていない。だからこそ、ストレスになる。

100%自分の意思で生きるということ

最近知ったのだが、「ボランティア」という言葉の語源には、「100%自分の意思で」という意味がある。

これは、とても示唆的だ。

何かを誰かのためにやるときも、そこにやらされ感があると、感謝を期待し、期待が裏切られたときに怒りが湧く。

でも、100%自分の意思でやるなら、期待はしない。

だからこそ、ストレスにならない。

私は、妻のため、子どものために時間を使うことがある。

でも、それは私がそうしたいからやっている。

「家事をしている俺、見て!」なんて思って家事しても、クオリティは低いと思う。

もし誠実な態度が返ってこなかったら、「もうこの人には誠実でいるのをやめよう」と、静かに決めればいい。

誰に優しくして、誰に尽くすかは、自分の意思で決める。

それが、自分軸で生きるということだ。

人の悪が見えるとき、自分もまた弱っている

誰かの「悪いところ」が気になって仕方ないときは、自分の心が弱っているときだ。

それは、「まだまだ自分は未熟で成長途中です」というサインでもある。

私も子どもによく言う。

「お姉ちゃんが意地悪した?じゃあ、あなたはしないようにしようね」

他人は変えられない。変えられるのは、自分だけ。

争いは、自分から終わらせる。

「割れ窓理論」ではないけれど、自分が良い行いをしていれば、周りも釣られて良い行いをする。

そう信じている。

だから、誰かを否定したくなったときこそ、自分を正すチャンスだ。

悪いところばかりに目を向けるのではなく、相手を尊重して良いところを見つける。

悪いところは自分にももちろんあって、悪いところが見えるのは、まだまだ成長途中で弱い自分がいるということなのだから。

覚悟とは、他人ではなく「自分との約束」

吉田松陰は言った。

「最もつまらないと思うのは、人との約束を破る人ではなく、自分との約束を破る人です」

私は、今日も自分との約束を守って生きていたい。

目が爆発するからスマホを見ない、それでいい。

階段を使わないと足が折れる、それでいい。

その極端さの奥に、覚悟がある。

誰かに強制するのではなく、誰かに褒めてほしいのでもなく、「私はこう在りたい」と願う自分との約束を、静かに、粛々と、守っていく。

それが、強く生きる覚悟なのだと思う。

それでは、今日も1日、最高に楽しく生きましょう!

PROFILE
のりたま
のりたま
僧侶兼主夫として働く、三人娘の父親ブロガー
健康的で、SDGsな子育てや、人生の質を向上させる有益な情報を発信します。
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