エッセイ

未来のために生きるという呪い

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「未来のために自己投資をしよう」

この言葉に、どれだけの人が救われ、そしてどれだけの人が縛られているだろうか。

先日、友人との会話でふとした違和感を覚えた。

それは、自己研鑽、学び、人脈作り、社会貢献など。

いわゆる未来志向の行動が、絶対的な善として語られていたこと。

もちろん、それ自体は素晴らしいことだ。

だけど、そこに一抹の怖さも感じたのだ。

「未来のために」という言葉が、まるで免罪符のように、今の人間関係や健康や心の声を置き去りにしていないか?

そんな問いが、静かに胸の奥でざわついていた。

「未来のため」の影に隠れた現実逃避

私はこれまでに、いわゆる「意識高い系」と呼ばれる人たちをたくさん見てきた。

毎朝5時に起き、筋トレをし、読書をし、瞑想をし、ポッドキャストを聴き、オンライン講座で学び続ける。

まさに未来への投資のフルコース。

だけどその一方で、家ではパートナーとの会話がない。子どもの目を見て話していない。部下への態度が雑。

未来に夢中になるあまり、「今」の生活はボロボロというケースを、私は何度も目にしてきた。

それはもはや、自己研鑽という名の現実逃避だ。

未来という名の仮想通貨に全財産を投じて、肝心のという生活口座がスカスカになっている、そんな姿にも思える。

「好きなこと」を楽しめない病

私自身、未来のために生きることに異様なまでの執着をしていた時期がある。

SNSをダラダラ眺めるのが嫌だった。

ゲームをしていても「この時間、意味ある?」と途中でやめてしまう。

「好きなこと=意味がなければダメ」と、どこかで思い込んでいたのだ。

だからこそ、今をただ楽しんでいる人をどこかで見下していた。

「そんなことしてて、将来大丈夫なの?」と。

でも、ふと気づいた。

彼らは今、確かに生きている。

笑っている。充足している。

未来は、まだ来ていない。

彼らのは、まぎれもない真実だった。

「学びすぎて動けなくなる」という罠

自己啓発の世界には、いくつかの落とし穴がある。

たとえば、知識のコレクター。

セミナーに通い、読書会に出席し、オンラインサロンに入り浸る。

頭の中には大量の「知識」が詰まっているのに、現実は何一つ変わっていない。

まるで「歌詞だけ覚えて、歌った気になっている」ような状態だ。

大切なのは、知識を使って歌うこと。つまり、動くこと。

もう一つの罠は、「must思考」。

「~しなければならない」「もっと頑張らないと」という思考に囚われると、タスクに溺れて息ができなくなる。

その結果、「忙しい」と言い続け、心が亡くなる。

高い志自分を追い詰めるムチに変わる。

そこまでして、未来にたどり着きたいのだろうか?

グラデーションで生きる

「今か、未来か」

そんな二択に陥ってしまう時、私は立ち止まるようにしている。

この世界は、白と黒ではなく、すべてがグラデーションでできている。

楽しいことをやっている人も、怠けているとは限らない。

苦しい努力をしている人も、真に成長しているとは限らない。

すべては、その人の生きるタイミングと選択なのだ。

自分の価値観を、他人に押し付けない。

そして、自分にも押し付けない。

「未来のため」も大切。

でも、「今ここ」にある空気や温度、家族の声や自分の疲れにもしっかり目を向けたい。

未来を育てるために、今を慈しむ

私はこれからも、自己研鑽を続けていくだろう。

だけど同時に、子どもと笑い合う時間や、何の生産性もない読書の夜も、大切にしていきたい。

人の成長は、勉強だけでは育たない。

感情つながり、そして遊びの中にこそ、本当の学びがある。

未来のために今を犠牲にするのではなく、未来のためにこそ、今を丁寧に生きる。

それが、私の「未来志向」であり、「現在志向」だ。

それでは、今日も1日、最高に楽しく生きましょう!

PROFILE
のりたま
のりたま
僧侶兼主夫として働く、三人娘の父親ブロガー
健康的で、SDGsな子育てや、人生の質を向上させる有益な情報を発信します。
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